うつに至るまで(不妊治療、出産、育児)

不妊治療〜1度目の出産

 私は顕微授精で2度妊娠した。
 採卵は累計5回、移植は累計7回。2人を妊娠するために支払った金額はおよそ650万円だ。多いのか少ないのかは人によって違うだろうが、私が妊娠するまでに費やした代償は、決して金銭的なものに限らなかった。結論から言えば、私はうつ病になった。不妊治療の影響だけではないが、一端を担ったのは確実だった。

 1人目の治療は困難が多かった。移植しては化学流産、陰性、流産、陰性、陰性……数十、数百のホルモン剤の投与と、実ることのない治療。出口のない暗いトンネルを手探りで歩き続けるような日々だった。私の人生における価値基準は、妊娠するかどうか・子どもがいるかどうかに集約されていった。子どもが出来ない自分は価値がない、こんな自分と結婚したパートナーに申し訳ない。日を追うごとに自責の念は膨張した。治療が進展しないプレッシャーと、3回目の移植が流産になったショックで、私は仕事を辞めた。
 不妊治療で湯水の如くお金が出ていくのに辞職したのだから、家計は火の車だった。当時は保険適応になる直前の過渡期だった。制度が移り変わっていくさなか、私は保険適応への淡い期待を胸に、いつまで続くか分からない治療を継続した。
 見通しが立たない未来に、不安と焦りが破裂しそうだった。いや、何度か破裂した。そのたびに割りを食ったのはパートナーで、私の八つ当たりを根気強く耐えて宥めてくれた。
 私は妊娠しない現実に絶望して、道半ばで不妊治療を投げ出しそうとしていた。それを説得したのもパートナーだ。彼は忍耐強かった。そして迂闊にも、私はこんな約束をしてしまった。
「採卵はあと1回までね」
 凍結卵は3個残存していたが、希望はもてなかった。9個移植して成果がゼロだ。私はとっととノルマを終えて自由になりたかった。早いとこ移植し終えて不自由な通院地獄にピリオドを打ちたい。なんならパートでゆる〜く働きながら、大学のセミナーや研究室に通ってみたいとか、日本全国旅行に行きたいとか、YouTubeやってみたいとか、欲望のまま夢想した。私の治療への熱量はガクンと下がった。でも、気持ちは晴れ晴れとしていた。「いつまで治療し続けるのか」というプレッシャーが、一気に軽くなっていった。
 残っていた凍結卵を2つ移植した。私の中で、また駄目なんだろうなと悟りの境地に至って、ついでに口唇ヘルペスにもかかって、ついてないなあと嘆きながらも、日課になったフライング検査をした。当時もブログを運営していたから、フライング検査は惰性で続けていた。
 その日はET8(初期胚の移植から8日目)だった。
 くっきりとした陽性判定が浮かび上がった。ちなみにフライング検査を行うならドゥーテスト(妊娠判定用)が1番だ。感度が良く、尿中HCG濃度に合わせて判定線の濃淡が出る。私はドゥーテスト信者だった。常に買い置きが5箱くらいあった。2箱を切ると自発的に発注していた。楽天市場の決まった店で何箱も頼んでいた。3ヶ月おきに妊娠検査薬を3〜4箱買う客だ。あと数年続けていたら都市伝説になってたかもしれない。

 閑話休題。
 とにかく陽性が出たのだ。陽性判定は3回目だ。前の2回は悲しい結果に終わったので、私は用心深く念入りに平常心を保った。ドゥーテストを机の上に置いて(ちゃんと消毒はした)、部屋をうろうろ歩き回りながら、陽性が出たら胎嚢確認と心拍確認まで何日なのか指折り数えた。カレンダーを見ていてもカウントミスして、さっぱり頭が働いていない。リモートワークの休憩で部屋から出てきたパートナーの周りをぐるぐる回った。
 哀れなことに私は希望が大きければ大きいほど裏切られた衝撃が強まることを知っていた。妊娠判定の血液検査、胎嚢確認、心拍確認。1日1日が果てしなく長かった。しかし、何パターンもの『最悪のシナリオ』は全て杞憂に終わった。私は2年半通っていた不妊治療専門のクリニックから卒業し、産科のある総合病院へ転院して、出産まで漕ぎつけた。
 苦節3年半、人生の大仕事である出産は終わった。万事問題なくとはいかなかったし、色々と酷い目にあったが、母子ともに生きていたので御の字だ。そんな出産の達成感は一瞬で、私は産後の痛みと闘いながら、育児をすることになった。あんな大変な目に遭ったんだから1ヶ月くらい休ませてほしい。
 育児は想像よりも過酷だった。授乳もオムツ替えも沐浴も寝かしつけも手こずった。私は自分のポンコツさにほとほと愛想尽かしながら、必死で子供の世話をしていた。育児中、しあわせを感じることは多くなかった。
「育児が初めてなのだから大変で当たり前」
「お世話することに必死になっているだけ」
「産後はナーバスになりやすいものだ」
 定型文で自分の心を騙した。私の場合、うつへの坂道をゆっくり転がって落ちていった。変化はそれほど大きくなかった。多少の齟齬は記憶と突合して修正され、周囲の他人は「産後だから」という便利な言葉で帳尻を合わせる。少々の違和感を抱えながらも、自分が正常であると疑いもしなかった。そして私は、1度目の出産を終えて3ヶ月で不妊治療を再開した。

2人目不妊治療

 なぜそんな無謀なことをしたか? 理由は3つある。
 1つ目にして最大の理由が、2人目が欲しかったからだ。まずこの動機がなければ不妊治療とは永遠におさらばしていた。
 2つ目は、凍結授精卵が1つしかなかったからだ。1人目が生まれるまでに計11個必要だったので、残った1つで妊娠できるとはとても思えなかった。
 3つ目は、パートナーと「採卵をあと1回やる」と約束してしまったからだ。大人として、1人の人間として、約束を守ることは重要である。交わした誓いは遂行せねばなるまい。私は駆り立てられるまま不妊治療専門クリニックに舞い戻っていた。
 やるべきことは手短に、かつスピーディーに行うことが望ましい。おまけに採卵はなるべく若いときに行うのが鉄則である。私は出来るだけ迅速に動いた。もしかしたら産後ハイの一種だったのかもしれない。今行動しなければ、2人目の妊娠は不可能だと思い込んでいた。私の認知はいびつにへし曲げられていたが、全く気付かず身体を酷使し続けた。
 破滅の兆しは、この頃すでに訪れていた。産後3ヶ月で臨んだ採卵のためのホルモン剤を投与した結果、私は眠れなくなったのだ。それまで細切れで1日7時間前後眠れていたのに、投与3日目には3〜4時間まで減った。頭は痛いし重いし、全身が怠く、脳内ではどんどん悲愴的な妄想が展開されていく。耐えきれずに不眠症の治療薬を処方してもらった。メンタルクリニックも予約した。とにかく眠りたかった。
 最初に処方されたのはデエビゴだった。その後、メンタルクリニックではゾルピデムも出された。併用はせず状況によって使い分けるよう指示され、薬は劇的に効能を示した。眠れると気分もすっかり良くなった。私は一過性のことだと割り切って、睡眠を薬で制御しながら採卵を無事終えた。終わってからも時々、眠剤に頼った。もともとあまり寝つきが良くなかったが、産後は明らかに悪化していた。徐々に忍び寄る病魔など眼中に入れず、育児に没頭していたら、あっという間に長子が1歳となった。頃合いを見計らって、私は凍結卵を移植した。

 2人目不妊治療は呆気なく終わった。なんと1回の移植で妊娠したのだ。びっくりするくらい拍子抜けで、とんとん拍子にまた総合病院の産科に転院した。なにもかも順調に進んでいた。
 ただし、2人目の場合、大変だったのはここからだ。
 なんと妊娠中、ほぼ全期間でつわりの症状に悩まされた。頭痛もしょっちゅうで、一日中ベッドの上で過ごす日も多かった。2人目はあまりに身体が辛くて、はやく産みたいとまで願った。穏やかでしあわせなマタニティライフとは無縁のまま、次子が誕生した。

 とはいえ私は人生の目標であった「2人の子どもの出産」を成し遂げた。
 もうこれでいつ死んでも悔いはない。
 誇張抜きに、そう思った。

産後不調と創作活動

 2人目が生まれて、私は今まで後回しにしていた課題に取り掛かることにした。
 仕事を見つけ、復職することだ。
 ちょうど世界情勢が悪化し、円安が加速し、物価がみるみるうちに上昇していた頃だった。不妊治療で650万円以上を費やした負い目もあり、私ははやく仕事をして稼ぎたいと考えていた。子どもは2人までと決めていた私は、もういつでも復職できると意気込んでいた。転職サイトに登録して、ひたすら求人広告を眺めていた。自分でも止められなかった。まだ次子が生後3ヶ月の頃だった。
 私の職探しは、身体的不調によって妨げられた。最初は目の痛みだった。右目が乾燥して涙が出るわ、目が開けていられないわで、私は慌てて眼科に行った。検査技師にメガネの度数が強いからいけないんだと怒られ、ぼろぼろと泣きながら、7万もするメガネに買い替えた。身体のあちこちが痛くてマッサージにも通った。その内、脂肪分の多い食事を摂ると吐いたりお腹を下したりするようになった。胃腸科で胃カメラをしたが、逆流性食道炎と言われただけだった。体調が悪くなるのが嫌で、質素な食事のみで済ませるようになった。ただ育児のためだけに生きているような日々だった。私はどんどん追い詰められた。こんな調子では仕事もできない。復職は諦めた。不安と焦りが加速度的に増した。薬を飲んでも眠れない日が増えた。その頃には育児をすること自体に苦痛がまとわりついていた。子どもが泣くと、自分の不甲斐なさを責め立てられている気がした。私みたいな母親で申し訳ないという自責の念と、泣き声への忌避感による苛立ち。いつの間にか、子どものそばにいること自体が苦痛に変わった。なんとかしなければと踠けば踠くほど、より深く沈んで身動きが取れなくなった。
 そして私は小説を書くようになった。
 昔から漫画や小説が大好きだった。最初はストレス発散が目的だった。しかしどんどんのめり込むようになった。私はたびたび自分で生み出したキャラクターと会話した。実際に声に出して、ぶつぶつと語りかけた。このキャラはこんな場面でなんというだろう、休日はどこに行くんだろう、趣味はなんだろう、どんな洋服を着るんだろう、好きな食べ物は?
 自分の中にいるキャラクターをひたすら現実に具現化しようと昼夜問わず妄想を続けた。私は目覚めながら空想と同居するようになった。パートナーはそんな私をそっと見守っているだけだった。下手に関わりたくなかっただけかもしれない。
 現実逃避のための小説執筆は、やがて行き詰まった。所詮、下手の横好きなのだ。物語のテーマも展開も文章も、何ひとつ特筆すべきところがない平々凡々な出来だ。おまけにやたら冗長だ。書いても書いても終わりが見えない。私は自分の小説の完成度を上げるために、世の中に出ているそれはそれは素晴らしい出来の作品を、破竹の勢いで読み始めた。
 育児と創作活動の両立は、ただの根性論だった。私は昼間育児をし、パートナーが寝かしつけをしてくれている間に、睡眠を削って作業していた。それまでギリギリで保っていた私の精神と身体は、2026年4月26日に破綻した。

パニック発作

 その日、私はデエビゴを3錠内服してしまった。本来2錠だったのだが、飲み間違えたのだ。育児をしながら創作をしていた弊害か、それともうつ症状による記銘力の低下か、私は様々なケアレスミスを繰り返すようになっていた。PTPシートに残っている数が合わないと気づいた時には、薬を飲んで30分経っていた。今吐いても、もう間に合わない。
 私は慌てたが、2錠のところ1錠余分に飲んだからって死にはしない、と自分を落ち着かせるように努めた。しかし、頭は段々ぼんやりとしてくるのに、心には不安の大波が打ち寄せてくる。ガンガンと頭痛がし始め、キーンと耳鳴りが響いた。動悸とともに、手足が氷のように冷たくなる。私は叫びそうになった。なんだ、何かがおかしい。
 もしかして、死ぬ?
 どっどっどと、心臓が早鐘を打ち、鼓膜を突き破りそうなドクドクという拍動を聞いた。私はぐるぐると部屋の中をひとりで彷徨った。このまま寝たら、2度と目を覚まさないかもしれない。根拠のない恐怖に視界が白く霞んだ。死にたくない。どうしよう、どうしよう。その時家にはパートナーも子どももいたが、起こす発想は出てこなかった。私は#7119に電話した。
 細かい内容は割愛するが、私の話を聞いた電話口の女性は、救急車を呼ぶか夜間外来に行くよう促した。そこで私は逆に冷静になった。あれ、けっこう大ごとだ。じゃあパートナーを起こしても良いか。
 私はその時まで、パートナーに頼らず自分ひとりで対応しようと考えていたのである。己の判断能力と認知能力が異常ということに、ようやく気づいたのだ。

抗うつ薬の処方

 さて、パートナーを叩き起こし、なんやかんや救急車は呼ばずに夜を超えた私は、眠剤を処方してもらっている病院を受診することにした。昨夜の状況と症状を説明したところ、医師はミルタザピンの服用を勧めた。抗うつ薬だ。
 正直、意欲低下や感情鈍麻もないし、読書なども出来ている。私ははじめ懐疑的だった。しかし、昨夜のような情動に駆られるのも御免だった。渋々ながら薬を飲むことにした。
 これがビックリするぐらい効いた。
 私は久方ぶりに「安心感」のある世界を手に入れた。セロトニン最高。副作用でがっつり眠くなったものの、数週間もすれば昼間の眠気は抑えられるようになった。2ヶ月もすれば、自分はうつだったのだな、と認められるようになった。世界が正常だった頃の視野を取り戻し、うつによって歪められた思考回路を是正することができた。百聞は一見にしかず。この病気になってみて見ることができた景色が数多くあった。病気になったからこそ削ぎ落とせた価値観があった。
 私はいま、自分がしんどい思いをするものは手放すようにしている。
 そして「本当にやりたいこと」だけを、心の赴くままに実行している。
 不妊治療の4コマ漫画を完結させてから久しくブログを離れていたが、結局私は何かしら創作する楽しさから逃れられないのだ。

おまけ・Kindle情報

 前述の通り、私は不妊治療のことを4コマ漫画にしたためてブログにアップロードしていた。その記事数は187話に上り、4コマは560本以上あった。最初の頃はヘッタクソでお恥ずかしい限りだが、私の不妊治療のこまやかな軌跡が綴られているので、Amazon Kindleの無料公開を予定している。Amazonのアカウントが必要にはなるものの、もっと詳しく知りたいという方は、目を通してもらえたら嬉しい。
 当時の1番人気記事は、BT6フライング検査。次いでET8フライング検査。次もフライング検査。フライング検査の記事だけアクセスが1桁多い。機会があればこちらのブログでも再掲しようと思う。

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